朝:トースト(6枚切り×1枚)、半熟卵(2個)、チェダー・チーズ、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ
1994年(平成6年)の今日、8月31日、バブルの象徴と云われ、一世を風靡したジュリアナ東京が閉店した。
Wikipediaによると、ジュリアナ東京とは、〝ウォーターフロントと呼ばれた東京都港区芝浦にジュリアナ東京ブームを築いた伝説的なディスコ〟であり、その〝正式名称は「JULIANA'S TOKYO British discotheque in 芝浦」である〟のだそうである。
このジュリアナ東京から、〝お立ち台(ギャル)〟や、〝ジュリ扇〟と呼ばれた羽根つき扇子、〝ボディコン・スタイル〟、等々の風俗――言葉の正しい意味での――が、流行した。これらの言葉ならびにその言葉が示すものは、現在でもバブルの象徴として、あるいは憧憬をこめて、あるいは懐旧の念とともに、またあるいは揶揄を含んで、語られている。
当時は地方都市に住む若者――男女を問わず――のあこがれであり、一度は訪れたい場所であった。似たようなディスコや音楽系クラブが、それこそ雨後の筍のように出現し、そこに群れ集う男女が、上世代の眉を顰めさせたものである。
それはまさに、バブルを謳歌する若者の、東京の、日本の、象徴であった。
現にこのジュリアナ東京が店を閉じたことが、バブル経済の崩壊を如実に示す現象として、当時の人びとには衝撃をもって受け止められたものである。
当時〝新人類〟と呼ばれて先行世代を顰蹙せしめた若者たちが、いまではいわゆる〝アラフィフ〟である。往時茫々、時は流れるものである。
昼(弁当):麦飯(茄子の辛子漬け)、鰯の梅生姜煮、小松菜のわさび和え、野菜とわかめの酢漬け
鰯の梅生姜煮は、先週の残りである。先週は〝鰯の生姜煮〟と表記したが、正しくは、〝鰯の梅生姜煮〟である。
ご覧のとおり、イワシは魚偏に弱いと書く。これは鰯が〝足が速い〟、すなわち早く腐敗するからである。そんなわけでか、鰯は生姜煮や酢漬け、罐詰などが多く好まれる。あまり素焼きにされることはないようだ。週の初めとは云え、先週分の残りである。大丈夫かな? と、不安に思わないでもなかったが、べつにどうと云うことはなかった。腐敗臭もしていなければ、味も変わっておらず、はらの調子も悪くなっていない。善哉、善哉。
むしろ、小松菜のわさび和えのほうが、少しく傷んでいるようだった。妙に酸っぱく、いつもとは味わいが違っていた。しかしこれは先週ずっとそうだったし、それでいて、胃腸に異常は来たしていないのだから、気のせいかも知れない。
それにしても、体温のような暑さが続く昨今、いくら冷蔵庫の性能がよくなっているとは云え、過信は禁物である。何事も用心するに如くはない。コロナにばかり気が云って、ナンタラ食中毒に罹ってもつまらない。
晩:玉子麦飯、塩さばフィーレの焼魚、小松菜のわさび和え、きのこ類の佃煮風、木綿奴、納豆、味付海苔
以前にも記したかも知れないが、塩さばフィーレのフィーレとは、仏語の「Filet」のことで本来の意味は少量、網と云う意味なのだそうである。獣肉などでは、よく、ヒレ肉、などと云う言葉を聞くが、魚ではあまり聞かないのではなかろうか。魚の場合は、三枚におろした片身のことなのだそうである。なるほど、〝三枚おろしの片身〟と云うよりも、〝フィーレ〟と云ったほうが、なにやら高級感が漂うのであろう。西欧米劣等感のなせる業、で、ある。
そのフィーレを、久しぶりに、素焼きにした。早い話が、塩さばの素焼き、で、ある。昼の記事で、イワシとは魚偏に弱いと書く、と、記したが、〝サバと云う字は魚偏にブルーでしたか〟との名言を放った人がいた。いわゆるひとつの〝ミスター〟と呼ばれる野球人である。
鯖も鰯も、味が良くて、栄養価が優秀で、しかも価格が廉い、いわゆるひとつの大衆魚、で、あり、お魚の三冠王、で、ある。
小松菜のわさび和えだが、今回は上手くいった。おそらく先週のは、素材がいまひとつだったのだろう。野菜も立派な生き物である。天候や土壌の良し悪しによって、その風味が左右されるのはやむを得ない。近年は人工栽培や品種改良などで、一定の味が保たれていることに慣れきってしまっているようだが、本来はそう云うものではないはずである。便利を追及するのも結構だし、むしろそうあらねばなるまいが、本来の姿、本来のありかたも、決して忘れてよいものではない。
1994年(平成6年)の今日、8月31日、バブルの象徴と云われ、一世を風靡したジュリアナ東京が閉店した。
Wikipediaによると、ジュリアナ東京とは、〝ウォーターフロントと呼ばれた東京都港区芝浦にジュリアナ東京ブームを築いた伝説的なディスコ〟であり、その〝正式名称は「JULIANA'S TOKYO British discotheque in 芝浦」である〟のだそうである。
このジュリアナ東京から、〝お立ち台(ギャル)〟や、〝ジュリ扇〟と呼ばれた羽根つき扇子、〝ボディコン・スタイル〟、等々の風俗――言葉の正しい意味での――が、流行した。これらの言葉ならびにその言葉が示すものは、現在でもバブルの象徴として、あるいは憧憬をこめて、あるいは懐旧の念とともに、またあるいは揶揄を含んで、語られている。
当時は地方都市に住む若者――男女を問わず――のあこがれであり、一度は訪れたい場所であった。似たようなディスコや音楽系クラブが、それこそ雨後の筍のように出現し、そこに群れ集う男女が、上世代の眉を顰めさせたものである。
それはまさに、バブルを謳歌する若者の、東京の、日本の、象徴であった。
現にこのジュリアナ東京が店を閉じたことが、バブル経済の崩壊を如実に示す現象として、当時の人びとには衝撃をもって受け止められたものである。
当時〝新人類〟と呼ばれて先行世代を顰蹙せしめた若者たちが、いまではいわゆる〝アラフィフ〟である。往時茫々、時は流れるものである。
昼(弁当):麦飯(茄子の辛子漬け)、鰯の梅生姜煮、小松菜のわさび和え、野菜とわかめの酢漬け
鰯の梅生姜煮は、先週の残りである。先週は〝鰯の生姜煮〟と表記したが、正しくは、〝鰯の梅生姜煮〟である。
ご覧のとおり、イワシは魚偏に弱いと書く。これは鰯が〝足が速い〟、すなわち早く腐敗するからである。そんなわけでか、鰯は生姜煮や酢漬け、罐詰などが多く好まれる。あまり素焼きにされることはないようだ。週の初めとは云え、先週分の残りである。大丈夫かな? と、不安に思わないでもなかったが、べつにどうと云うことはなかった。腐敗臭もしていなければ、味も変わっておらず、はらの調子も悪くなっていない。善哉、善哉。
むしろ、小松菜のわさび和えのほうが、少しく傷んでいるようだった。妙に酸っぱく、いつもとは味わいが違っていた。しかしこれは先週ずっとそうだったし、それでいて、胃腸に異常は来たしていないのだから、気のせいかも知れない。
それにしても、体温のような暑さが続く昨今、いくら冷蔵庫の性能がよくなっているとは云え、過信は禁物である。何事も用心するに如くはない。コロナにばかり気が云って、ナンタラ食中毒に罹ってもつまらない。
晩:玉子麦飯、塩さばフィーレの焼魚、小松菜のわさび和え、きのこ類の佃煮風、木綿奴、納豆、味付海苔
以前にも記したかも知れないが、塩さばフィーレのフィーレとは、仏語の「Filet」のことで本来の意味は少量、網と云う意味なのだそうである。獣肉などでは、よく、ヒレ肉、などと云う言葉を聞くが、魚ではあまり聞かないのではなかろうか。魚の場合は、三枚におろした片身のことなのだそうである。なるほど、〝三枚おろしの片身〟と云うよりも、〝フィーレ〟と云ったほうが、なにやら高級感が漂うのであろう。西欧米劣等感のなせる業、で、ある。
そのフィーレを、久しぶりに、素焼きにした。早い話が、塩さばの素焼き、で、ある。昼の記事で、イワシとは魚偏に弱いと書く、と、記したが、〝サバと云う字は魚偏にブルーでしたか〟との名言を放った人がいた。いわゆるひとつの〝ミスター〟と呼ばれる野球人である。
鯖も鰯も、味が良くて、栄養価が優秀で、しかも価格が廉い、いわゆるひとつの大衆魚、で、あり、お魚の三冠王、で、ある。
小松菜のわさび和えだが、今回は上手くいった。おそらく先週のは、素材がいまひとつだったのだろう。野菜も立派な生き物である。天候や土壌の良し悪しによって、その風味が左右されるのはやむを得ない。近年は人工栽培や品種改良などで、一定の味が保たれていることに慣れきってしまっているようだが、本来はそう云うものではないはずである。便利を追及するのも結構だし、むしろそうあらねばなるまいが、本来の姿、本来のありかたも、決して忘れてよいものではない。