2020.03.12-1-2朝:トースト(6枚切り×1枚)、半熟卵(2個)、チェダー・チーズ、プレーン・ヨーグルト、野菜ジュース、バナナ

今日は〝半ドンの日〟であるらしい。

「今日は何の日~毎日が記念日~」と云うWebsiteによると、〝1876(明治9)年のこの日、官公庁で土曜半休・日曜休日制が実施された〟ことにちなむのだそうである。

つまり、〝それまでは、1868(明治元)年9月の太政官布告により、31日を除く1と6のつく日を休日としていた〟が、〝欧米との交易等で不便があったため、欧米と同じ仕組みに改めることとした〟と、云うことである。

それがなぜ〝半ドンの日〟となるのか、と、云うと、〝1871(明治4)年から皇居で毎日正午に大砲(午砲・ドン)を撃っており、土曜日はドンとともに仕事が終わることから、丸の内に勤める人たちの間で「半ドン」と呼ばれるようになった〟のである。〝ドンは全国の都市で行われるようになり、それとともに「半ドン」という言葉も全国に広まった〟のだそうだ。

ちなみに、〝オランダ語で日曜日を意味するzondag(ゾンターク)が訛って「ドンタク」となり、土曜日は半分が休日であることから「半ドンタク」略して「半ドン」となったとする説もある〟そうである。

けっして〝半兵衛ドン〟や〝半分丼〟のことではないのである。

それにしても、〝31日を除く1と6のつく日を休日としていた〟とは面白い。これで行くと、1日、6日、11日、16日、21日、26日、が休みとなるわけだ。まさか、〝1〟がついてるじゃないか、と、云って、10~19日まで、すべて休みだったわけではあるまい。

いまや〝半ドン〟どころか、半日休日さえなくなっている。もちろん、業界や会社によっては、まだまだ半日休が残っているところはあるであろうが、一般にはほぼ消滅している。

昭和も遠くなりにけり、である。

2020.03.12-2-2昼(弁当):麦飯(食べる唐辛子ふりかけ)、玉子焼き(2個)、ほうれん草と白菜の胡麻和え、かぼちゃの煮物

どうも朝は寝惚けていていけない。

トッピングにみそかつおにんにくを使うつもりが、食べる唐辛子ふりかけをかけてしまった。今日は天気も好く、さほど寒くもなるまいから、カプサイシンで体を温める必要もあるまいに……。

さらに、ウインナーをお菜にするつもりだったのに、かぼちゃの煮物を入れてしまった。

脳が機能していないと、習慣通りの行動を選択してしまうものとみえる。逆に考えれば、任意の行動を習慣づければ───いわゆるひとつのルーティン・ワーク化すれば───、脳が休んでいてもこなせるわけだ。そう考えると、逆説のようだが、嫌だがやらなければならない仕事は、習慣づけたほうがよかろう。

玉子焼きは2個いっぺんに料理ってみた。少々荒業っぽいがこのほうがかえって時間が経済(←『壺算』と云う落語で気に入った表現)であるようだ。ただしその分、油をしっかり塗布しておかないと、卵が容器壁にこびりつく恐れがある。

ほうれん草と白菜の胡麻和えはほうれん草の歯ごたえが残って、なかなか美味である。あまり小さく切らなかったのがよかった。一口大よりやや大きめに切って、ざっと湯掻くのが正解のようだ。大量消費、とはいかないが、使いでのある食材であり、なかなか重宝である。 

2020.03.12-3-2晩:玉子麦飯、即席みそ汁(油揚げ、乾燥わかめ、とろろ昆布)、鶏ささみの味噌漬け焼き、ほうれん草と白菜の胡麻和え、かぼちゃの煮物、たくあん漬け、木綿奴、納豆、味付海苔

鶏ささみの味噌漬け焼きも失敗しなくなった。ただもう少し漬け込んだほうが、味がよりいっそう滲みて、いかにも味噌漬け焼き、みたいな風味になったかもしれない。

昼の弁当のお菜に玉子焼きを入れているおかげで、卵の消費量が5個/日になってしまった。卵はいつも多めに調達しているので、消費戸数が少々増えたところで苦にはならない。

茹で卵、炒り卵、卵とじ、玉子焼き、その他諸々……卵料理は大好物なので、これまた何日続いたところで苦しゅうない。

一昔前までは、〝健康のために玉子は1日1個〟などと云う戯言がまことしやかに拡散し、信じ込まれていたが、ナカナカ愉快な幕間狂言であった。

現在では〝1日2~3個なら差し支えない〟とか、〝たまに5個までなら大丈夫〟とか云っているようであるが、これまた同工異曲である。

病弱な少年も、食べ盛りの若者も、運動不足の高齢者も、老いてなお盛んなお年寄りも、肉体労働に従事する人も、一日中机の前から離れられない OA作業員も、電車で飛び回る営業者も、長距離トラックの運搬業者も……みな一律にとらえて摂取量を定めることに、いったいどれだけの確実性や実効性があると云うのだろうか。

その食材がどんな栄養素を含んでいて、それがどのように健康に役立っているのかを知り、その知見に基づいて、自分自身の生活に照らし合わせて、自分自身の判断で、摂取するのが常道であろうと思う。

なにかにつけて他からの〝要請〟や〝指示〟がなければ動けない体質になってしまっていては、この〝自分自身で〟と云うのが無理無体であることは、じゅうぶん承知しているが、それにしても、少しは、情けない、と、思ってもらいたいものである。恥を知る、と、云うことは、古来、日本人の偉大なる特性のひとつなのであるから。