
今日は〝香りの記念日〟なのだそうである。
Wikipediaによると、〝1992年のこの日、石川県七尾市で第7回国民文化祭「世界香りのフェアIN能登」が開催され、それを記念し制定され〟たのだそうである。
日本は国土が狭隘で生産力が低いわりには人口が多く――生産力が低いからこそ人力に頼らざるを得ず、したがって、人口も多くならざるを得ないのだが――、ために〝遊び〟を罪悪視する傾向が続いた。精確に云えば、現在も続いている。〝遊び〟は〝仕事〟すなわち〝生産労働〟の真逆であり、遊びに時間と労力を割かれると、その分〝仕事〟すなわち生産労働に消費すべき時間と労力が減退する、と、云うわけである。現在でもなおその傾向があり、〝遊び〟は〝仕事〟の効率を高めるための一手段である、と、見做す傾向が強い。ビンボたらしいことである。
しかし反面、勤勉で精励で禁欲を尊ぶ気風が形成される。で、あるから、本来の〝遊び〟も、〝芸〟だの、〝道〟だの、たいそうなことを抜か……云って、それをなにやら有り難いものに祭り上げる。
字を書けば書道、花を愛でれば華道、茶を味わえば茶道、格闘や殴り合いでさえ、柔道、剣道などと、〝道〟をつけたがる。で、その〝道〟を極めた人を、〝極道〟と、称するのであろう。
香りを愉しむことさえ、香道などと云う。なんでも〝道〟である。
そのくせ、シャネルだかなんだか知らないが、臭い水をふりかけて得意がっている輩がいる。獣肉ばかり喰らって、身体が獣の臭いに満ち満ちている欧米人ならいざ知らず、野菜を中心とした清らかな食生活を営んでいる、本来の日本人には、香水など無用のものである。
ニラやキムチを常食としている人たちの体臭を好い匂いとは思わないが、だからと云って、獣肉食人種の体臭や、それを消すためのより強烈な臭いをありがたがる気もしない。
中国人や韓国人の体臭を嫌悪しながら、欧米人種のそれはなんとも思わない鼻感覚は、わたいに云わせれば、狂っている、としか、云いようがない。いや、狂っているのは、鼻感覚ではなく、脳神経のほうかもしれない。

料理りすぎた、と、思ったが、意外とそうでもなかったようだ。
小松菜のわさび和えはなくなった。6種野菜の酢漬けも、あと1食分である。揚げない鶏のフライでさえ、3食分しか残っていない。意外と食べているものである。
それにしても、揚げない鶏のフライは、瓢箪から駒、と、云うか、怪我の功名、と、云うか、思いもしない収穫だった。今度はチーズと大葉を加えて、揚げない鶏のチーズ大葉巻きフライにしてもいいかも知れない。あるいは鰯のように、梅しそフライにすると云う手もある。ひとつ献立をおぼえると、つぎつぎにバリエーションが増えるのはありがたいことである。調子に乗っている、と、評す向きもあるかもしれないが、こう云う調子への乗りかたなら、わたいは大歓迎である。
哲やんに聞いたところによると、『共産党宣言』や『フォイエルバッハ論』を読んだだけで、いっぱしのマルクス主義者気取りになっているならまだしも、ろくにマルクスの著作も読まず、マルクスのことに関して書かれた本だけを読んで、ひとかどの進歩人を鼻にかけている連中が少なくないそうである。もちろん、そんなこと、信じはしない。哲やん一流のジョークであろう。
もっとも、Macにいわせると、ろくに『日本二千六百年史』も読まずに、保守だの右翼だのを気どってる連中がいるそうである。いくら連中が脳内お花畑とは云え、そこまでオメデタくはあるまい。
マルクスを読まないマルクス主義者、北一輝や大川周明博士を読まない保守、まるで料理を料理らないコックではないか。